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平成20(2008)年度収集 収蔵品目録26

【寄贈】

目録 資料群名 解題 件数 点数
1 波多野聖雄資料(追加分)  平成19年度収集資料の追加分。資料は所有者が住職を務める大圓寺に持ち込まれた土器・石器などの考古資料および関連資料である。考古資料は九州帝国大学医学部教授中山平次郎、郷土史家木下讃太郎・高野孤鹿、寄贈者によって採集・整理されたものである。
 採集地は福岡市と福岡県を中心とするが、熊本県・長崎県のほか、広島・徳島、東北~関西地方の資料も含む。資料中には中山平次郎が戦前に『考古学雑誌』『考古学』に発表したものや、春日市須玖岡本遺跡出土の未報告資料など、学術的価値の高いものが含まれている。
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2 佐藤太兵衛資料  福岡の商家佐藤家に伝来した資料群。佐藤家は、もと秋月氏の家臣で、江戸時代は福岡藩士小川家の家臣となった。江戸中期に分家が町人となり、福岡本町(現・福岡市中央区赤坂)で酒造業(屋号綿屋)を営み、歴代当主は年行司などの町役人を勤めた。資料群中の駕籠は、当主が町役人を勤めたために使用を許されたものと伝えられている。近代資料は、明治後期から大正期に尋常小学校や中等学校(高等小学校、中学校など) で使用された教科書、参考書や問題集が中心で、中等学校受験用の参考書や問題集が含まれているのが珍しい。 99 99
3 重松珠子資料  寄贈者の母・重松峰子氏関係の写真やアルバムのほか、寄贈者の母方の祖父に関わるもの、寄贈者が旅行先で入手したものなどからなる。
 写真は大正期から昭和前期のものが中心で、昭和11年の博多築港記念大博覧会で、当時専売局に勤めていた峰子氏が煙草の紙巻き実演をしていた際に、博覧会の会場内で撮影した写真などが含まれている。また、福岡市立商工青年学校の集合写真が複数枚あるが、撮影年を特定できる写真も含まれている。昭和10年代の入営祝いの幟が多数写っている写真もアルバムには含まれ、戦時期の写真資料としても貴重である。
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4 柴田愛子資料  1950年代に収集された肥前系陶器で「古唐津」を主とするものである。内39片には採集した年月日や窯跡名が注記されおり、唐津市岸岳皿屋窯跡、武雄市南部の小山路古窯跡、武雄市北部の国指定史跡小峠窯跡などで採集されたことがわかる。この他、未注記のものもこの周辺で採集されたものと考えられる。これらの陶器が生産された時期は16世紀末から17世紀第1四半期にかけてとみられる。 81 102
5 星野宜義資料  秋月藩士星野家に伝来した資料群。『黒田三藩分限帳』(福岡地方史談話会、1978年)に収録の「秋月文政分限帳」には、星野姓の藩士として星野惣右衛門(御陸士、12石3人扶持)と星野才助(並半礼、8石3人扶持)の2名が記載されるが、寄贈者は前者の家系にあたる。
 資料は、1書籍類、2武具類、3その他からなる。1は論語などの版本類と「古刀銘尽大全」などの写本類。これらには墨書による書込が多く見られ、藩士同士の書籍貸借の様子がうかがえる。2は黒漆塗椎実形兜・紺糸威桶側二枚胴具足と鉄錆地十六間筋兜・鉄錆地桶側五枚胴具足のほか、鎗をはじめとする刀剣類など。3は書籍を収めた木箱と枕。
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6 松村緑資料(追加分)  旧秋月藩士松村家(14石4人扶持→15石 無足)に伝来した資料群。平成17年度寄贈の追加分。
 松村家は豊前の出身で、中津で黒田孝高に従い、長政の筑前入国時には100石を与えられ、江戸屋敷に住んだ。その子勝成は初代秋月藩主黒田長興に仕え、御手廻頭を勤め、島原の陣で戦死した。幕末には、以心流剣術師範役を勤めた10代方成と11代美成を輩出している。
 今回はその11代美成(簫軒白道、1832~1902)に関わる資料が大半を占め、同氏が使用した筆記用具、印籠、古銭、印章類からなる。前回寄贈分の中に、秋月庵の落款がある書画類が大量に含まれているが、今回の筆記具や印章はその創作活動で使用された道具類である。この他、珍しいところでは鯨の歯のアクセサリーや、略式盛装用組紐がある。
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7 塚本家資料(追加分)  旧福岡藩医塚本家に伝来した書画や什器類。昭和58、62年、平成18、19年度寄贈の追加分。
 塚本家は長崎で医師をしていた道庵の時代に、福岡藩3代藩主黒田光之の持病を治したことがきっかけで黒田家に仕えることになった。近世を通じて外療科(外科)医の筆頭として300→330石を領し、南蛮流の医術を導入し、歴代藩主らの治療に当たった。
 今回の資料群は、東京の塚本家に最後まで残されていた書画や什器類である。代表的なものとしては、頼山陽の息子で安政の大獄で処刑された頼三樹三郎の蘭図や、江戸後期の儒学者で幕末3筆の1人貫名海屋(菘翁)の書、元幕府御用絵師で明治以降は開成学校や東京美術学校で画事を教授した狩野友信の作品群がある。
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8 西嶋栄二資料  室見川で使用された漁撈具。寄贈者は大正12年生まれ。早良区内野で農業を営む傍ら魚取りを趣味とし、アユ、フナ、コイなどを主に投網で取った。戦後、室見川漁業協同組合の創設に参加し、その後組合長を務めたが、平成20年3月末をもって室見川漁業協同組合が解散したため最後の組合長となった。
 資料は投網によるアユ漁に関するもののほか、投網用の錘(イワ)を製作するための鋳型が多く含まれる。鋳型は何れも自作で、製作する投網に合わせて適当な錘を作った。
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9 清水貞和資料  寄贈者の祖父・清水安太郎氏(1865~1949)が着用した陸軍少佐の軍服一式と勲章などからなる。寄贈者宅には、安太郎氏がこれらの軍服・勲章を着用して撮影した写真が伝わっている。勲章を着用する際の様子が分かる貴重な資料である。
 清水安太郎氏は大分生まれで、佐伯や善通寺など各地の師団に勤務した。安太郎氏がつけていた日記もかつてはあったが、空襲(当時は別府に在住)で焼失してしまった。勲章は、残念ながら箱や勲記が失われているものが多く、授与の年月日など詳細は分からない。
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10 衞藤ハルミ資料  寄贈者の父・衞藤卓郎氏(宇佐出身 1897~1941)が奉天で事業を始めるにあたり贈られた一行書のほか、末永節氏(1869~1960)の書や写真などからなる。
 衞藤卓郎氏は、旅順で関東庁に勤めていたが退職し、起業準備をしていた昭和12~13年頃に、奉天を訪れていた末永氏から書を贈られた。しかし、事業を始める前に卓郎氏が亡くなり、一家は日本へ引き揚げることになった。衞藤家は、帰国後も末永氏とは交流があり、さまざまな折に書いてもらった書などを、大切に保管していた。
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11 斉藤弘昭資料  古物商を営む寄贈者が仕入れた道具類のなかに含まれていた近代文書。明治20年代の志摩郡小田村の野取帳などからなる。
 志摩郡は、明治29年に怡土郡と合併し、糸島郡となった。小田村は現在の福岡市西区。小田村は江戸時代からの村名だが、明治22年に小田・草場・宮浦・玄界島・小呂島の6か村が合併して小田村となった。明治29年に北崎村と改称、昭和36年に福岡市に合併した。以上のような合併の経緯から、この資料群の文書は、年代の記載がないものも含めて、全て明治20年代の資料だと思われる。
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12 毛利通友資料  室見川、金屑川ほか福岡周辺の河川で使用された漁撈具。寄贈者は早良区小田部で農業を営む傍ら魚取りを趣味としてきた。ウナギ、ボラ、コイ、ハヤ、モクズガニ等が主な獲物であったが、特に鰻掻きと投網の腕前については周辺の人々によく知られる存在だった。
 鰻掻きは泥の中に潜むウナギを竹の先に取り付けた鈎状の金具で掻き取る漁法で、福岡でもかつて盛んに行われていた。投網は捕獲対象魚種や季節によって目の大きさ等が異なり、幾種類もの網を使い分けた。
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13 小川峰登資料(追加分)  平成11年度寄贈の追加分。博多祇園山笠の追い山と思われる写真3点を含む。その内1点は、撮影者は不明だが、標題から昭和5年の東町流の山笠であることが分かる。
 飾り山前での記念写真などの場合は、撮影年が特定できるが、動いている舁き山の写真で撮影年が判明する写真は貴重である。また、昭和前期に中洲の玉屋デパート階上から呉服町交差点方面を撮影した写真には、当時の電車通り(現在の明治通り)沿いの様子が、呉服町交差点角に建設中の片倉ビルも含めてはっきりと写っており、貴重な資料である。
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14 田中龍一資料(追加分)  平成2年度収集資料の追加分。寄贈者は、現在博多仁和加振興会幹事である。
 本資料は、博多仁和加の伝統を守り、次代に伝えていこうと博多仁和加振興会が、戦後「博多二〇加紅白合戦」を開催したことや、最初のプロにわか師となった平田汲月(1894~1972)の活躍を示す資料として貴重である。
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15 益田敏夫資料  福岡藩主黒田家の草創期を支えた24人の家臣「黒田二十四騎」の1人益田与助の子孫宅に伝来した古文書2点(益田与助宗清略伝、黒田長政書状)。
 与助は石見国(現島根県)出身で、18歳で黒田孝高に仕官。最初は台所の水汲み役であったが、徐々に頭角を現し、筑前入国後は鉄砲大頭となり、最終的な禄高は3,000石に達した。与助の跡は弟の彦兵衛が継ぎ、享保頃に二家に分かれた。本家は馬廻組150石、分家は城代組6石3人扶持で、寄贈者は分家筋に当たる。19世紀はじめの当主道乙が外科医となり、博多の対馬小路で開業する。以降、当主は道乙か道明と名乗り、近代以降も医者を輩出した。明治初期の当主道乙が福岡の医師界で活躍し、交流のあった冨田渓仙は道乙夫妻の肖像画(福岡市美術館所蔵)を描いている。
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16 村上陽三資料  郷土玩具2点。1点は多良木のきじ馬。熊本県球磨郡多良木町で作られた郷土玩具である。きじ馬は九州を代表する特徴的な木の郷土玩具で、球磨川流域では人吉のそれがよく知られる。多良木のきじ馬の多くは昭和30年前後から民芸品として売り出されたものである。当資料は斉藤友安氏の製作で、昭和40年の作。
 もう1点は登立天満宮の板うそ。熊本県上天草市大矢野町の登立天満宮で配られる板状のうそである。同天満宮では7月の夏祭りにうそ替え行事が行われる。太宰府天満宮を発祥とするうそ替え行事は現在では全国の天満宮で行われているが、そこで使われるうそのほとんどは丸木を削り掛けとしたもので、こうした板状のものは少ない。
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17 井手亮資料  江戸時代後期に活躍した長崎派の画家である谷鵬紫溟(生没年不詳)の「虎図」。作者の谷鵬紫溟は、当館所蔵資料「唐蘭風俗図屏風」(89B908・909)の作者であるが、極めて遺品が少なく、伝記の詳細も明らかになっていない。南画もしくは李朝民画の様式を基本としながら西洋画法を習得したあともとどめ、ひとつの画面に様々なスタイルが混在した雑種的な画風は、絵画様式における対外交流のひとつの例と位置づけることができる。 1 1
18 大内士郎資料  福岡市西区横浜の農家の倉庫に保存されていた半箕。丁寧に縁部に山蔓を巻き付け、竹を通して補強し、また、桜の皮を各所に配し補強している。それが、機能美としての装飾になっている。福岡地方で広く使われていた箕では、このような複合素材での細工は珍しい。当資料に類似したものとして、南九州で一般的に流通していた「日置箕」がある。また特殊なものとして「サンカ箕」がある。
 今宿には昭和20年代まで竹細工屋はなく昭和30年代になって中村氏という竹細工屋が今宿に住んだ。主に、姿を崩さず魚の煮付けをするための竹籠などを作っていたが、箕は作っていなかったとされる。この箕は、季節ごとに廻ってくる竹細工職人によって作られ、販売された可能性がある。
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19 大塚定男資料  米穀商を営む寄贈者の祖父と父定男氏(故人)が使用していた博多祇園山笠当番法被。下洲崎町の当番法被で、昭和2年に町内でまとめて、京都の呉服屋に頼んで作らせたもの。
 当番法被は、久留米絣で織られたものが大半である。古いものでは、箱崎縞を使った当番法被も存在していた。下洲崎町の法被は、そのどちらでもなく、7色のガス糸で織られ、紺、青、白の縦縞が、ぼかされているのが特徴。
 大塚家は江戸時代から続く博多の商家で、かつては木炭や石炭などの燃料を商っていた。定男氏は、昭和29年に若手頭、32年から赤手拭、36年に取締となり、昭和42年の町界町名変更により下洲崎町が須崎町1区となってから、平成7~10年には町総代を務めた。
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20 笠順子資料  寄贈者の母タミ氏が昭和3年に旧博多麹屋町の紙問屋河原田家に嫁入りしたときに持参した風呂敷。母の旧姓は松井、実家は福岡部にあった。嫁入り風呂敷には、松井家の紋と吉祥を表す鶴が染め抜かれている。唐人町の安恒染物店で制作したもので色使いと鶴の配置が珍しい。 1 2
21 嘉村義子資料  福岡藩主黒田家の草創期を支えた24人の家臣を描いた「黒田二十四騎図」。最上部に黒田長政を描く「二十五騎」タイプ。二十四騎図は江戸時代中期以降多数描かれるが、本図は家臣の並びが上から3人-5人-5人-6人-6人となっており、既知の図では見られない珍しい図像である。作者は「探友斎藤原守二」とあり、福岡藩御用絵師の尾形家を連想させるが、同家にはそういった人物は存在しない。黒田二十四騎図を多く手がけた尾形家を意識して名乗っている可能性がある。 1 1
22 中村政義資料  膝の上に童子を抱き、蓮台上に交脚して坐る菩薩像で、光背上部に十字架を彫出することから、いわゆる「マリア観音」と称される尊像の一例とみられる。構造は光背・台座を含む全体をトガサワラの一材から彫出し、頭部を丸彫り、体部以下を半肉彫りとし、背面には四角形の龕を設ける。また、像底には十字架と「大日」の2文字が陰刻されている。本像は古美術商であった寄贈者の夫(故人)が入手したもので、長崎県平戸の農家から出たとの伝えもあるが確証はない。ただ、「マリア観音」は九州長崎を中心にいくつかの小品が知られるなかで、本像は大型で本格的な作風を示し、図像的にも中国彫刻の要素が濃厚に認められる。制作時期・地域についてはなお検討が必要ではあるが、キリスト教禁教以前に中国から舶載された可能性も視野に入れる必要があろう。 1 1
23 原孝彦資料  寄贈者の亡夫・原孝彦氏が実家(原三信病院)から譲り受けた、頭山満(1855~1944)の一行書。平成6年度寄贈の原三信資料ともとは一群になっていたものと考えられるが、原家がこの一行書を入手した経緯などは分からない。原三信資料の中には、頭山満・中野正剛・柳原白蓮などの書を折本にした資料も含まれている。
 原家は、福岡藩の藩医で、代々「三信」を名乗っている。第12代原三信が、明治12年に外科医術開業の免状を受けて、診療所を開業した。明治35年には、診療所を基盤に、九州初の私立病院となった。
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24 宮徹男資料(追加分)  昭和59年度、63年度、平成9年度、10年度、14年度、16年度寄贈の追加分。寄贈者が知人から譲り受け、保管していた博多祇園山笠の飾り山の模型。
 模型は山小屋をかたどったケースに収められているが、ケース内の札に「国、県無形文化財 博多祇園山笠振興会会長 井上吉左衛門」と記されている。博多祇園山笠が昭和54年に重要無形民俗文化財に指定されて以降、井上氏が会長在任中(昭和33~59年)には、この模型の標題「驍捷飛将勇」に該当するものはない。
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【寄託】

目録 資料群名 解題 件数 点数
1 社団法人 玄洋社記念館資料  玄洋社は、明治から昭和にかけて活動していた政治結社。昭和21(1946)年に、連合国最高司令官総司令部(GHQ)の指令によって活動が禁止された。昭和53(1978)年に、故進藤一馬氏の奔走で社団法人玄洋社記念館が開館したが、平成20(2008)年6月に展示施設としての記念館は休館した。
 30年におよぶ記念館の活動のなかで、各方面から寄贈された玄洋社ゆかりの人びとの書画などが、数量的には大半を占める。特筆すべき資料としては、中野正剛および彼が主宰した東方会関連の資料がある。非常に点数の多い資料群であるため、本目録では、まず、漢籍等、記念館の書庫で別置されていた書籍のみを掲載する。
235 555
2 向野堅一資料  向野堅一(1868~1931)氏が収集した資料の他、堅一氏の長男・晋氏が堅一氏の履歴をまとまめるために整理した写真資料などからなる資料群。晋氏の長男・中三氏がながらく保管してきた。寄託者は、中三氏の次男で、堅一氏の曾孫にあたる。
 堅一氏は直方生まれで、修猷館、日清貿易研究所(上海)を経て、日清戦争中は通訳などをつとめた。明治29(1896)年に筑紫洋行(奉天)、明治39年に茂林洋行を設立し、大正6(1917)年には一家で奉天へ移住した。昭和6(1931)年、上京中に東京で死去。堅一氏の先妻・後妻がともに日田の広瀬家の出身であったため、資料群の中には、広瀬家ゆかりの書画や広瀬家の人びとからの書簡などもある。
554 1,136
3 稲員英一郎資料(追加分)  平成15年度寄託資料の追加分。寄託者の祖父で、刀剣収集家として著名であった故稲員稔氏の収集品。刀剣3口は平成7年度に「稲員コレクション」として寄託を受けたが、平成15年にいったん寄託解除となり、今回、刀装具・考古資料・工芸品・絵画・書跡・古文書とともに、改めて寄託された。 61 78
4 稲員英作資料(追加分)  平成15年度寄託資料の追加分。寄託者の祖父で、刀剣収集家として著名であった故稲員稔氏の収集した工芸品・絵画。 5 8
5 稲員興産資料  刀剣収集家として著名であった故稲員稔氏が収集した刀剣。5口とも平成12年度に「稲員コレクション(追加分)」として寄託を受けたが、平成15年にいったん寄託解除となり、稲員英一郎氏が代表取締役を務める稲員興産株式会社名義にて今回、改めて寄託されたもの。 5 5
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9時30分~17時30分
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