- ≪お知らせ≫
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国宝 金印「漢委奴国王」を山梨県立博物館に貸出しするため、常設展示室においてレプリカを展示します。
期間:令和5年3月9日(木)〜令和5年3月22日(水)(予定)
詳細は、山梨県立博物館のホームページをご覧ください。
What is the Kinin?
教科書に登場する最もポピュラーな国宝、それが金印です。その特徴を三つあげるとすれば、黄金で、五つの漢字が刻まれていること、それと鈕(つまみ)が蛇をかたどっていることがあります。福岡市博物館の常設展示の入場者数から単純に割り出すと、一辺2.3センチ、重さ108グラムの金塊に年間、十数万人の視線が注がれている計算になります。
![]() 金印 横 |
![]() 金印 正面 |
![]() 金印 上 |
金印は江戸時代、博多湾に浮かぶ志賀島(しかのしま)で農作業中に偶然発見されました。その後、筑前藩主である黒田家に代々伝わり、1978年に福岡市に寄贈されました。
金印に刻まれた「漢委奴国王」の五つ文字からは、漢の皇帝が委奴国王に与えた印であることが分かります。そして中国の歴史書『後漢書』には、建武中元二(57)年に、光武帝が倭奴国王に「印綬」を与えたことが書かれており、この「印」が志賀島で見つかった金印と考えられるのです。
さらに唐代に編纂された『翰苑(かんえん)』には「紫綬(しじゅ)」とあり、光武帝が与えた印の鈕(つまみ)には紫色の綬(じゅ)が結わえられていたことがわかります。
漢では官位につくと、文書を送る際に使用する印が与えられました。この印章制度を外交政策にも適応し、異民族の王にも官位と印綬を与えることによって皇帝を頂点とする秩序に組み入れようとしました。鈕のかたちは与えられた民族の領土によって異なります。漢帝国内の皇太子や高官などには亀の鈕の印が与えられますが、匈奴(きょうど)などの北方諸民族の王には駱駝や羊の鈕、蛇の鈕の印は南方の民族に与えられました。日本列島は南方の国と考えられていたようです。また、蛇の鈕をもつ金印としては中国雲南省の石寨山(せきさいざん)の6号墓で出土した「滇(てん)王之印」が知られています。
最後に金印の読みについて一言。
印面に刻まれた文字は、“漢”の文字で始まります。異民族であっても直轄領内の内臣には「滇(てん)王之印」のように王朝名は付きません。漢で始まるのは倭が外臣として服属しているが、直轄領となっていなかったためです。次の“委奴”は『後漢書』の記述と一致することから「倭奴」の略字と理解できますが、その解釈は分かれています。外臣に下賜(かし)する印には王朝名の次に民族名、そして部族名がくるので、「倭(わ)(族)」の「奴(な)(部族)」と考え、「漢委奴国王」を「漢ノ委ノ奴ノ国王(かんのわのなのこくおう)」とする読みかたが今日の代表的な解釈です。
金印の発見

金印公園

金印が発見されたのは天明4(1784)年2月23日、今日の暦では4月12日にあたります。花見が終わって、さあ頑張ろうという時節です。しかしこの頃、長雨や大風など異常気象が相次いだと記録にありますから、そうした余裕はなかったのかもしれません。
発見者は一般には口上書を提出した甚兵衛(じんべえ)となっています。しかし1830年代に著された仙崖和尚の『志賀島小幅』には秀治と喜平と書き添えられています。このほか『万歴家内年鑑』には秀治と記されていますから、彼らは甚兵衛の奉公人であったとも考えられます。
金印公園の前に立つ「漢委奴国王金印発光之処」の石碑は大正11(1922)年に建立されたものです。この場所はもともと田んぼの溝が迂曲する付近で、『金印考文』の「田中溝有迂曲(たなかみぞありうきょく)」とある記述から推定されたようです。
出土地について文献には「叶崎(かなのさき)」と「叶ノ浜」の二通りの記述が登場します。ここにいう「叶崎(かなのさき)」は「叶ノ浜」に含まれる海に突き出た部分と考えられます。金印の出土地点を最初に推定したのは病理学者でもあった九州考古学の草分け中山平次郎で、大正時代の初めのことです。その根拠となったのは古老の記憶と志賀海神社宮司の安雲(あずみ)家に伝わる『筑前国続風土記附録』の付絵図の描写によるものでした。
現在の金印公園付近は昭和20年代の写真を見ると金印碑前の道路はまだ舗装されていません。注目すべきは海岸に沿って細長い田んぼが二枚写っていることです。今その箇所は浸食をうけて波のなかですが、もともと安曇家の絵図を裏付けるように田んぼがあったことは確かです。金印の出土地は中山平次郎が推定したように石碑から海に向かって右斜め前に行ったところとするのが妥当のようです。
出土遺構

金印公園にある石碑
では、なぜ金印は志賀島に埋められていたのか。これまで「墳墓説」「隠匿説」が唱えられ論争となった時期もありましたが、全く不可解。(もし今日まで委奴国王の金印が見つかっていなければ、誰も志賀島にあると予測できなかったでしょう。)
金印の発見については甚兵衛の口上書以来40年ほどの間に10近い文献があります。口上書にある金印を覆った「二人で持つほどの石これあり」は他の文献では“大石”や“巨石”と表現が変化しています。このほか「石の間に光りそうろう物」とある部分は、口上書を実見できる立場にあった福岡藩の学者、梶原景熙(かげひろ)の『金印考文』では「周囲をとりまく三つの石は、箱のようだ(筆者訳)」と記されています。実証的な研究で知られる国学者、青柳種信(あおやぎたねのぶ)や『金印弁』の著者である亀井南冥(なんめい)の子、昭陽(しょうよう)らが自著にこの表現を採用しているのは記述の信憑性の高さを示しています。
この所見を北部九州の発掘調査から類推すると、平面長方形の4方を板石で囲む箱式石棺のような遺構が想定されます。箱式石棺の一辺が破壊をうけると平面コ字形となり景熙(かげひろ)の記述と合致するわけです。ただし箱式石棺は埋葬施設ですから金印は副葬されたことになります。
1世紀から2世紀にかけての北部九州では武器形祭器である銅矛や銅戈などの青銅器の埋納がさかんです。しかしこれらはすべて国産青銅器であり、地面を箱状に掘り窪めたところに埋納(まいのう)するのがふつうです。石囲いが金印を納めるための施設だとすると、青銅器の埋納とは異なるコンセプトを見いださねばなりません。
金印は古代中国の歴史書に記されたもので単に日本だけの遺産ではありません。同時に発見者や発見場所に謎が多い分だけ、ロマンが香るのかもしれません。
もうひとつの金印
漢委奴国王の金印のほかに、『魏志倭人伝』にはもうひとつの金印が日本に伝わったという記事があります。景初(けいしょ)3年(239)、邪馬台国の女王であった卑弥呼が魏の都へ貢ぎ物を贈ったことにたいして授けられた金印です。「今汝を以て親魏倭王(しんぎわおう)と為し、金印紫綬を授ける」とありますから奴国王と同じ紫の組み紐が鈕に結わえてあったことが分かります。
卑弥呼の使者をつとめた難升米(なしめ)と牛利(ごり)も銀印青綬を与えられたとあります。
印綬はもともと公的なものですから、死後返還されるのが中国のなかでは通例であったようです。しかし当時の中国の都から遠方の地であった雲南省では、「滇(てん)王之印」が墓に納められた例もありますから、辺境の地倭の人々に与えられた印綬がそのまま日本のどこかに眠っている可能性があるのではないでしょうか。
もし親魏倭王(しんぎわおう)の金印がみつかったら、そこは邪馬台国の有力候補地となることでしょう。
親魏倭王(しんぎわおう)の金印は江戸時代から学者の関心が高かったようです。藤貞幹は著作「好古日録」に「宣和集古印」に掲載されたものを紹介しています。